たんぽぽの自己啓発的日常

日常であったこと、感じたことについて、人生のヒントになりそうなことを綴っていくブログです

オナ禁日記0日目 アナザー・アプローチ

こんばんは。たんぽぽです

今回ちょい長めになっております。

感情爆発

昨晩のこと。いつもの通り20時には種々の作業を切り上げ、ネットとゲーム解禁の自由時間としたのですが、なんだか面白さを感じないという状態でした。いまいち楽しい感じになれず、24時になってしまい。でも0時だから寝ないと・・・となったところで感情が久々に爆発。「〇ソがァー!何が習慣化じゃあー!」って感じになっていました。


恐るべきはマインドフルネスの力で、0時7分くらいに「あ、ストレスが爆発している。これをフォーカシングで内観すれば、さらに内面の統合が進んで自分の力にできるぞ。しめしめ」とか思いついて、就寝時刻もあるので15分くらい内観をしてから寝たんですね。


今日はさらに追加でフォーカシングをして、今日のブログ記事に「7分間の爆発」というタイトルで内面探求とストレスケアの大事さの記事を書こうと思っていたのですが、思ったよりも無意識の暴走が強かったようで、今日の日中リセットと相成りました。なので、こういう記事になってます。


オナ禁259日目。前回リセットしたのは229日目なのでちょうど30日伸びてますね。脳が何か企んでいるのでしょうか・・・

tanpopo8787.hatenablog.com


リセットと直接的原因分析

オナニー依存習慣のある方の場合、行為に至ってしまう特定のシチュエーションがあると思います。私の場合、従来はPCでポルノを見ながら抜く、というパターンが最も多く、こちらはオナ禁を始めてからほぼ完全にやめることができています。


ただ、自分では意識していない「別パターン」が存在しており、今回はそちらでのリセットになりました。(厳密には、射精に至る前にやめたのですが、その後、遺精みたいな感じで漏れてしまったので、ギリギリアウトです。)オナニーの「パターン」が複数ある場合、ひとつやめただけでは不十分、ということですね。

間接的な原因分析

上記のように、昨日は無意識下において強いストレス状態に自分を追い込んでしまいました。行動記録を見ると、家事・祖父の遺品整理・体幹トレーニング・仕事の準備・ネット制限につぐ次の習慣の準備など、あまりにも多くの予定をつめこみすぎたようです。特に、時間を確保するため、土手の散歩をカットしてしまったことが、リラックスの時間を奪ってしまったように思います。要するに無理しすぎました。


一昨日の時点で「こんなにできるんかね」と自分で思っていたのですが、意外にできてしまい。昨日ブログを書いたあたりでは満足に浸っていたのですが。すでにそこで意志力を使い切ってしまっていたようですね。このことが今日にまで響いたかもしれません。

影響と、そこから得られた知見

現在、毎日新しい仕事用の情報収集と、それを講座とセミナー用に落としこむためのアイデアまとめを行っているのですが、今日のリセット後は集中力がガタ落ちでした。体感的には、体がボーっと熱している感じで、読書と発想に必要な頭の切れが出てきづらいです。


もしかすると、ドーパミンの分泌が止まらず、セロトニンが阻害されているのかもしれません。「オナ禁をすると、頭が明晰になる」という話に関しては、ほんまかいな、と思っていましたが、まんざら嘘でもなさそうです。

さらなる知見とこれからの行動

仕事に集中できない時間帯に、体の中に居座る熱にフォーカシングを行ったのですが、いくつか興味深いことが分かりまして。


オナニー(寸止め)によって発生した残響には、(おそらく抑圧に対する)「悲しみ」、(欲求を我慢しなければいけないことに対する)「しんどさ」、という感情が隠れていました。私が善意でやっていたオナ禁は気づかないこととはいえ、結構な抑圧。いわば暴君であったようです。


この感情の向こう側には「性欲」のエネルギーらしきものが存在していました。最初は単なるムラムラにように感じていたのですが、そこに集中していると、どうやらそれは「性欲」という枠組みを超えた、純粋な活動のエネルギーであるらしきことがなんとなく分かってきました。


アスリートや芸術家が欲求を昇華して、すばらしい結果を出す、という話は聞いたことがありますが、それがどういうことなのか。その糸口をつかんだかもしれません。


オナ禁はしようと思えばある程度継続できるようなので、一旦これまで通りの「オナ禁」は終了とし、自分が得意とするアプローチで、性欲を見つめ、性欲を自分のものとしていこうと思います。


長文、ここまでお読み頂き、ありがとうございました。

ネット制限の習慣化に成功

こんばんは。たんぽぽです

ネット制限の習慣化 30日の結果

昨日で、「ネットとゲームは20時~24時まで」という、ネット制限の習慣化期間30日目となりました。きっちり制限を守れた、とは到底言えませんが、習慣化は確実に進んでいると思います。


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今回の習慣化に際しては、こんな感じに記録をつけています。記録がついていないのは外出日です。20時前にネットやゲームをしない、というのは完璧に守れていますが、1時間以上の超過が4日。10分以上1時間未満の超過が8日ありますね。特に、21日目~26日目は終了時刻を守らないのにやや慣れてしまい、危ない時期でした。


まだまだ油断はできませんが、日中ネットをしないで家の作業や、新しい仕事の準備、その他のチャレンジに取り組むのことが習慣化できました。

あらかじめの対策が大事

『「やめる」習慣』を読んで、この本に忠実に習慣化を試みましたが、結果は成功と言えるのではないでしょうか。根深い習慣というのはちょちょいっと変えられるものではないので、やはりあらかじめの対策がとても大切なのだな、と身に染みて感じます。プランニング超大事。

tanpopo8787.hatenablog.com


地味に効果があったのが「1分オーバーする毎にスクワット1回」というルールで。一番長い時で4日目に85分超過してしまったのですが、スクワット85回は結構しんどかったです。その後もちょくちょく制限を超過しているのですが、大幅な超過への抑止力として、この罰則は効果があったと感じます。おかげでスクワットがちょっと得意になってしまいました。

長い戦い

私がネットにはまり込んだのはたぶん大学1年からなので、かれこれ15年くらいになるのでしょうか。そのくらい長い習慣なわけです。自分がネットに膨大な時間を投じていることは分かっていましたが、それを管理するのは大変難しいことでした。このブログの2つ目の記事もネット関連ですね。

tanpopo8787.hatenablog.com


それが完璧とは言えないまでも1か月でコントロールできるようになるのですから、習慣化がいかに強い力を持っているかが分かります。まあ、コントロールを阻害していたのも(ネットをするという)習慣の力なので当然といえば当然かもしれません。


今回実感したこととして、自己コントロールというのは強い自己肯定感に結び付くようで、ここ一か月の私は多少の浮き沈みはあるものの、極めてポジティブな精神状態を維持しています。長らく停滞していた仕事の準備も、今年中にはなんとかなりそうな目途が見えてきました。


「習慣化」という発想に目覚めたのも、それを続けるモチベーションを維持できたのも、ブログで思考の整理と内観を続けることができたおかげです。毎々、稚拙な内容をお読みいただいている皆さんには改めて御礼を申し上げます。


これからも、更に良い習慣を身に着けていくつもりです。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



自分用まとめ:
・段取りが大事。超大事
・いい行動は習慣化してこそ


「やめる」習慣

「やめる」習慣

眼が良くなる?

こんばんは。たんぽぽです

渡り鳥

今日の午前中は天気が良く、ちょっと早起きにも成功したので久しぶりにカメラを持って土手を散歩。


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川に沿って飛んでいく鳥を発見しました。


まっすぐに川の上を飛行して、まったく降りる様子はないあたり、渡り鳥っぽいです。カメラと私の腕の限界で何の鳥かまでは分かりませんでした。渡り鳥というと、白鳥と雁くらいしか知りませんでしたが、先日のブログでご紹介したササゴイも渡り鳥っぽいですし。身近なところでも知らないことがたくさんあるなー、と新鮮な驚きを覚えていました。

眼が良くなる?

そんなこんなで相変わらず鳥に意識が向いているのですが。それに関係するのかしないのか、今日は妙に眼が良い感じで。


いわゆる視力が回復したとかそういう話ではなく(ちなみに、近眼+乱視で裸眼視力0.4くらいだったと思います)、これまで気が付かなかったことがなぜか眼に入ってくる、という感覚です。注意力が増しているといったほうが近いかもしれません。


視界の端で動いているハエトリグモ(0.3㎜くらい?)に気が付いたり(2回、別個体)、肌の黒子が妙に気になったり、突然、手の指の向き・傾きがどうなっているのか気になったりという、経験したことのない感覚が断続的に続きました。

むしろ混乱する

注意力が上がったり、動体視力が良くなったとか単純にそういう話ならうれしいのですが、意識しない情報がたくさん入ってくるのでむしろ混乱する感じです。


なぜ突然こういう感覚になったのか詳細はさっぱりなのですが、いろいろな要因が重なっているのでしょう。今はそういう感じは収まったようですが、自分の生活を変化させていくと、思いがけないことが起こるものですね。


とはいえ、混乱していても仕方がないので、落ち着いて行動していきたいところです。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



自分用まとめ:
・行動を変えると、自分では予期せぬ結果が起こることもある
・だからといってあわてない

脱同一化に関する覚書

まとめのようなもの

同一化

感情・衝動・欲求 等に意識が飲み込まれているような状態にあることを「同一化」と呼ぶ。例えば、ダイエットをしているのにも関わらず、間食をやめられないような場合、食欲と同一化してしまっている、と言えるだろう。


詳細には、「食べたい」と感じてから、お菓子なりなんなりを食べて、空腹感が満たされて、はっと我に返る直前まで、食欲と強い同一化の状態にあると言える。ちなみに、その後に「ああ、また欲求に抵抗できなかった・・・」と悔やむことになるだろうが、その瞬間は罪悪感という感情と同一化していることになる。

脱同一化

上記のような状態から脱し、自身の感情・衝動・欲求 等から少し距離を置いた状態を脱同一化と呼ぶ。言葉で説明すると

同一化の状態:「私はお腹がすいている」
脱同一化の状態:「私の中に、お腹がすいている、という感覚がある」
 あるいは「私は空腹を感じている、そのことに気づいている」

といった感覚になる。いわば、意識が感情・衝動・欲求 等の支配から脱した状態と言える。この状態は様々な問題解決において強力な力になる。

偽りの脱同一化

内観などをしている際、この脱同一化の状態を得られることがあるが、ひとつ、似て異なる状態がある。それは、感情・衝動・欲求 等を「分析」している場合。


特に、依存症等を引き起こすのは感情・衝動・欲求 等であり、この種類の感覚を「外から眺めている」ので、脱同一化に成功しているように思えるが、実は「分析」のステートに入っている場合には『思考』および『判断』と同一化していることがほとんどである。


現代において、私たちは「思考」によって問題を解決するように教え込まれるため、一見理に適った行動のように思えるが、思考のみでは感情・衝動・欲求 を抑圧することはできても、解決することはできない。


また、分析には多くの場合、「善悪」「正誤」の判断から派生する自己への『断罪』が意識的・無意識的につきまとい、結果的に自己批判からストレスを増大させる可能性が高い。

効果的な脱同一化の感覚

それでは、効果的な脱同一化の感覚とはいかなるものか。特徴としては「客観」と「受容」が挙げられる。


例えば、「悲しみ」の感覚にフォーカスする場合、「自分の中に、悲しいという感覚がある」と、主観的に認識し、その際になぜ悲しいのか、ということは考えない。感覚をそのまま感じる。無論、「なぜ悲しいのだろう」という思考が浮かぶことはあるが、その思考は一旦脇に置いておく。


いわば、泣いている子供に寄り添うような感覚である。場合によっては、感情によりそうだけで、その感情が解消する場合すらある。(話を聞いてもらってすっきりする、というのに似ている)


さらにそこから内面と対話をしていくテクニックはいろいろあるが、この脱同一化の感覚を身に着けることで、自分の内面を全体的に肯定し、建設的に自己改善に取り組むことが可能になる。


体系的なメソッドとしては、ユージン・ジェンドリンが開発した『フォーカシング』が存在する。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。




やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方

やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方

風邪気味の日に

こんばんは。たんぽぽです

体調不良と自動思考

昨日の疲れが出たのか、今日は午後から鼻水が出てだるくなってしまいました。それでちょっとイライラしていたのですが。


夕方になって、ふと「体調がよくないのとイライラするのは直接関係ないよな・・・」と気づきまして。つまり


A:①体調が悪い → ②イライラする

という風に思っていたのが、実際には

B:①体調が悪い → ②体調が悪いのは「よくない状態だ」と認識する
 →③「よくない状態」になった自分を責める → ④ストレスを感じる
 →⑤イライラする → ⑥さらに不快感が増す


というようなプロセスを踏んでいることに気がつきまして


体調不良で不快感があることに変わりはないのですが、実は自動思考とか、自責癖から余計にストレスを増加させていたのだなー、と面白い発見をしました。

肉体の苦痛と、精神の苦痛は同じとは限らない

確か3年くらい前、腹痛でトイレに籠もっているとき。ふと「腹痛の”痛み”とそれに伴う感情的な”苦しみ”は似て異なるものではなかろうか??」と思いつき、なぜか一瞬で痛みまでもがなくなったという面白い経験をしたことがありましたが、それに近いかもしれません。


私の場合、体感に対しては外部からの刺激よりもさらに反応的・反射的に行動してしまうところがあるのですが、感覚・感情に自覚的であることでかなりの感情コントロールが可能になるのかもしれない、と感じた出来事です。


風邪気味なことに変わりはないので早く寝ます。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



自分用まとめ:
・肉体の刺激に対する反応は、気づけば自分で選択できる
・よく考えずに前日と同じ服と着ると寒くて鼻水が出る

100回噛んで食べる

こんばんは。たんぽぽです

外食にて

今日は弟に頼まれて、手伝いに出かけていまして。その兼ね合いで昼食は外食でした。弟がハンバーグ屋がいいかな、みたいなことを言うので洋食屋に入り。自分も何年かぶりに外でハンバーグを食べてみようかと思って頼んだのがこちら。


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ハンバーグ定食です。これにサラダがつきます


量が多い!定食としての量は普通だと思いますが、私は普段からあまり量を食べません。多分成人男性の平均の半分くらいです。最初からライス半分でお願いしようと思ったのですが、弟に「ここそんなに多くないよ」と言われて、お願いしそこねてしまいました。弟の「多くない」と自分の「多くない」が違うのを失念していた・・・!

意を決して残す

以前も書いたかもしれませんが、私は小学1年生の時に「残すな全部食え」と学校で仕込まれたせいで、今でも「食事を残す」のがとても苦手です。超苦手です。強迫観念に近い。


ですが、普段食べない油っこいハンバーグを食べて、その上普段の倍のライスまで食べてはお腹の負担限界を超えるのは必至。先日も外食で出されたものを全部食べたことが一因となって、胃痛に悩まされたのが記憶に新しいです。


tanpopo8787.hatenablog.com

この時ですね


なので、意志の力を総動員してハンバーグを半分と、ライス7割くらいを残すことにしました。それでも、お腹には結構負担だったようなので、やはり残して正解でした。よくやったぞ自分!ちなみに残した分は弟が全部食べました。太るぞ弟!

夕食にて

そんなこんなで。「完食強迫症」には打ち勝ったのですが。夕食時になっても、まだ昼食の消化が続いているようでどうしようかと思ったのですね。


そこで、「よく噛んで消化をよくしよう」「前に中途半端にやっても効果なかったから徹底的にやろう」と考えて、口の中のものがスープになるまで徹底的に噛んでから飲み込むということを試してみました。


回数を数えてみると、大体100回くらいかかるみたいで。時々「100回噛んで食べよう」とか言う人がいるのは、わりと根拠があるのかな、と思います。結果、夕食を食べるのに普段より10分くらい余計に時間がかかりましたが、胃腸に過度の負担をかけることなく消化をすることができたようで、不快な症状は全く出ませんでした。

なぜ、100回噛めたか

実際、「100回噛む」を試したのはこれが初めてではないのですが、いつも100回噛むのが億劫になったり、すぐに違うことを考えてよく噛むのを妥協してしまったりしていたんですよね。今回は「また胃痛になったら嫌だ!」という危機感も影響したのかもしれません。


あるいは、ここでも「ネット制限で意志の使い方、意図の使い方がうまくなった」効果が出ているのやもしれませんね。ここまで生活全般に良い効果が出ると、ネットや自己啓発本で「〇〇さえやっときゃ人生良くなる!」とか言いたくなる人の気持ちも分かる気がします(笑)


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。



自分用まとめ:
・不要な信念を手放すと良いことがある
・自分にちょうどいい量が、よその標準とは限らない
・よく噛む(100回くらい)ととても消化に良いようだ
・危機感も役に立つことがある

批評をやめられるようになってきた

こんばんは。たんぽぽです

ふとでる批評に気づく

自分で気づかないうちにしている癖、というのは誰しもあるものかと思いますが、私には批判というか、批評癖のようなものがあります。簡単に言うと、良い仕事を見ると分析して褒め、悪い仕事を見るとそれについて欠点を指摘する、というものです。


ちなみに、褒める方向に暴走するとこういう記事を書いたりします↓

tanpopo8787.hatenablog.com



自分では長所・短所を指摘する、くらいの感覚なのですが、他の人から見ると上から目線でうんちくたれているようにしか見えないでしょうから、結構ウザいんだろうなーと思います。特に、レストランの接客、内装、味の分析とかするのが好きなので、つい口に出してしまい。弟にあからさまに非難されたことが2回くらいありました。


なのですが。ここ一週間くらい、自分が「何かについて評価を述べよう」としている瞬間に気がついて、「やめとこう」となる場面が4、5回ありました。ネット制限であたまがスッキリしてるのは確実に影響しているでしょうが、何が直接のきっかけなのかはやや曖昧です。

自分を批評するのをやめたから?

一つ、思い当たるのは、ここ2週間くらいはフォーカシングによって自己の内面の整理を行い、自己批判を行うことが少なくなってきたこと。また、自己批判という(無意識の)行為そのものを忌み嫌うのを止め、それも自己に統合することを始めたことが関係しているかもしれません。


人間の思考や行動というのは、無意識において対象を選ぶことはないもので。他者を批評するときは、必ず自分も批評の対象になっています。自分を批評するのをやめ始めたので、他者を批評する働きも弱くなってきた、ということです。


何にせよ、嬉しい変化ですね。

できるようになって、意味が分かる

批判と批評は違うだろう、と考える方もいらっしゃると思いますが、どうも私の中では批判と批評の線引きは曖昧のようで。いずれも何かを攻撃する、「悪いこと」であるという強い認識があります。


私にとっては批判と非難も同じような感じで、感情を入れずに、つまり非難しないで批判することなんてできるのか、という感覚がありますね。これは自分ができないからそう考えてしまうのだと思いますが。


人生における、感情、思考、態度、考え方(パラダイム)というのは、できるようになって初めてその意味が理解できる。という、なんとももどかしい部分がありますが。だからと言って立ち止まっていても変化は起きないので、行動というのは大事であるな、と改めて思うところです。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。