随想 悩みの中核への冒険 その1
こんばんは。たんぽぽです
昔のことを思い出す
昨日の就寝前にことですが、ふと「自分はずいぶん悩みが多いよなー、小さい頃はそんなことなかったのになー」とか考えていました。
私が明確に記憶を保持しているのはぎりぎり幼稚園くらいからですが、その頃は悩みとか、あんまりなかった気がしますね。「大人になればいろいろなことをせにゃならんのだから、当たり前」と思われるかもしれませんが、ちょっとそのことを掘り下げみてみようかと思いました。
宿題きらい 本当は
改めて、「悩み」ということについて思いを巡らすとき、それは憂鬱な感覚と共にあります。この憂鬱を最初に感じたのは小学校1年生のときで。幼稚園の時に使っていた黄色い小さなかばんを見ながら「幼稚園は宿題がなくてよかったよなー」と考えていたことを、その場の情景とともにはっきり覚えています。
ちなみに、その後、母親の期待に応えんと高校生くらいまでは勉強を頑張っていた私は、次第に自分が勉強を好きだと思い込むようになり(なんでもできればそこそこ面白いですからね)、実はそこまで好きでもない、と気づくのはその20年以上後(今から3年前くらい)になります。(※子供が親に好かれるため、無意識に演技をする典型的パターンですね)
理屈抜きの感覚
さて、話を戻しますと、私の場合「悩み」は憂鬱な感覚と共にあります。その感覚の核になっているのは、この「宿題いやだ」かもしれません。(こういった心理的条件づけは、基本的に7歳くらいまでの強い感情体験がきっかけになります。)
微かに残る記憶と感情を思いを巡らせると、なんとなく、帰ったらさっさと遊びたいのに、プリントだの教科書だのを開いてあれこれやらないといけないということが嫌だった気がします。今の私は人に何かをしなさいと言われることが大嫌いなのですが、この時はそういう要素はあまり感じませんね
現在に戻って
長くなりそうなので、このくらいにしますが、どうも現在の私の「悩み」(これは具体的な悩みではなく、「頭の中にある悩み回路・悩み発生装置」くらいに考えて頂けるといいです)、の根幹は、やりたくないことをやらなきゃいけない、というけっこう素直な感覚に関係があるようです。
今の私はなんでもかんでも理屈づくで考えて、頭がこんぐらがって終わってしまうパターンが多いので、もう少し昔の幼児的感覚を思い出すと、意外な突破口が開けそうな気がします。特にオチとかないですが、今日はこんなところで。続きは未定です。
ちなみに、ヒプノセラピーの年齢退行療法は、こんな感じで問題の核になる体験を探して、そこからこんぐらがった感情と思考をほどいていくという方法論になりますね。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
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