幸せとこだわり
こんばんは。たんぽぽです
〇意外な副次効果
今日は1日おきの体幹トレーニングの日でした。体幹トレーニングの最中にいろんなインスピレーションが入ってきやすい、ということは何度か書いていますが、そのように認識すると脳もそのように思い込むのか、毎回毎回その感度が上がっていくような気がします。
繰り返しによって能力が向上しているとも、思い込みによって強化されているともとれますね。
〇こだわってしまう言葉
昨日は師匠と夕食をご一緒したのですが、それもあって今日も朝からいろいろと思うところが多かったです。
昨日戴いたあなごです。ふっくら
今日の体幹トレーニングの最中に考えていたのは、自分が人生で求めるものは、どのような言葉で表現するのがしっくりくるか、ということ。その中で気がついたのが「幸せ」という言葉への反発感でした。
これも多分、社会人になってからだと思いますが、私は「幸せ」という言葉があまり好きではありません。主な理由は、『これが幸せだ(だから買ってね)』というコマーシャル、広告が多すぎて、幸せという言葉が安売りされすぎていると感じていて、それに対する反発です。
なので、私は自分が価値を感じたり、幸福感を覚えるものに対しては努めて「幸せ」という言葉を使うことを避け、人が幸せという言葉を使うたびに大なり小なり葛藤を感じていました。しかし、一昨日あんみつを食べて、そのことをブログ記事に書いて以来。やはりこの感覚は、総括して幸福感とか、幸せと呼ぶのがしっくりくるな、と思っています。
〇そのこだわり、本当に必要かな?
私は平均よりも言葉に対して敏感な部分があると自認しており、そういった点からこういう謎のこだわりが出てしまうのかもしれません。
言葉に限らず、こういう反発感など、自分の外で起こっていること(広告など、自分の内面ではなく、外から入ってくる情報。自分の影響の外にあること)に対して、感情的に『反応』を続けてしまうと、色々要らんエネルギーと使ってしまうな、と気づいたとこです。
そういえば、体幹トレーニングの最中は筋肉と丹田に集中するようにしているので、こういう自分では「いい感じ」に感じている思索も、雑念と言えば雑念なのですよね(笑)
あまり、外から入ってくる情報、形式やルールにこだわりすぎないのも大事なのかと思います。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
自分用まとめ:
・自分が不快感(怒りとか、葛藤)を感じる場合、おおよそ不要なこだわりがある
・何にこだわっているのか、気づくと外せる