言葉への意味づけ 人生の意味づけ
こんばんは。たんぽぽです
※今回若干の毒舌が含まれます。ご注意ください
こちらはジャノヒゲ(オオバジャノヒゲ?)
〇神社へ
本日は片付けの一環として、神棚の上にあるお社(ミニサイズの神社みたいなの)を近所の神社に持って行ってお祈り(魂抜き)をして貰いました。神社にお参りに行くことはあっても、本殿の中に入るのは超久しぶりなので新鮮でした。母によると、小さい頃に入ったことがあるらしいのですが、覚えていません。
日差しが強い外から入った建物の中は涼しく、思ったよりもずっと清浄な空間でした。ちなみに、本殿の屋根には雀が出入りしていましたね。音は聞こえませんでしたが、上に巣があるかも。
いわゆる祝詞もかなり久しぶりに聞きました。抑揚のつけ方とか、檀家になっているお寺の住職さんがお経をあげるときにちょっと似ていましたね。密教系のマントラとかを含めて、相互に影響があったりするのかもしれません。
〇人生をどのように捉えるか
さて。一昨日、師匠(と私が勝手に捉えている方)からちょっと面白い話を聞いたので、忘れないうちに。
人生とはなんぞや、と問われてどのように答えるかは人それぞれかと思います。そんなことを考えることに意味なんてない。と答える人もいるでしょうし、人生に意味なんてない、と答える人もいるでしょう。この記事のタイトルを見ただけでイラっとする方も一定数いらっしゃると思います。
そんな中で、一定数、人生を「修行」と捉える方たちがいます。私はこの意味付けが実は嫌いでして。理由は堅苦しいイメージがあってイヤだし、なんか、難しい顔をして、好き好んでキツいことをしてるくせにエラそうにしてるように”見えて”ウザいんですよね。
センスの良い方は、その裏で私が”何を苦手にして、何を怖がって”いるのか、簡単にお分かりかと思います(笑)。バリバリの偏見というのは表面上分かっているのですが、どうにも嫌悪感が抜けなくて悩んていました。
〇修業は苦行ではない
一昨日聞いた話は、それとは直接関係はないのですが(ないのかよ)、修行は修行であって、苦行ではない。ということでした。
これが結構目からうろこでして。私は無意識のうちに、修行=苦しい、きつい。というイメージが先行していたのですが、修行=行を修める。であって、別にその過程で苦しむ必要性はないのです(経過として苦しみが生まれることはあるでしょうが)
先日の腹痛の話ともリンクしますが、修行の中で出てくる(ことがある)一要素である「苦しみ」を拡大して、修行という言葉のイメージに一致させてしまっているのですね。人間が日常的に行っている”意味付け”が悪い方向に働いている典型例だな、と思います。
〇捉え方という意味付け
そう考えると、修行というのは、単に何かをやっていく。ということであり、けっこうニュートラルな言葉であるな、と感じられるようになりました。同時に、「人生は修行」な人たちへのヘイトもかなり薄くなってくれました。
表現がちょっと違うだけで、ねじ曲がった捉え方をしてしまうこともありますが、「捉え方」という意味づけを変えてみるだけで、人生簡単に楽になることもあるようです。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
自分用まとめ:
・自分が反応する言葉に、どんなイメージを持っているか考えてみよう