たんぽぽの自己啓発的日常

日常であったこと、感じたことについて、人生のヒントになりそうなことを綴っていくブログです

”正しさ”についてあれこれ考察する

こんばんは。たんぽぽです


今日は曇りでしたが、そんなに寒くなくて助かりました

 

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イヌナズナ


〇正しい、という言葉
感情の解放ワークをしていると、しばしば「悪い」とか「正しくない」という言葉が自分の中からよく出てきまして。自分は善悪とか、正しい・正しくないという考え方に随分囚われているなあ、と感じます。


なので、昨日はワークを中断して、少しそのあたりについて考察してみました。悩んでいるときにこういうことをしても大体うまくいかないのですが、好奇心から初めて、マインドフルネスを高めた状態であれば、意外な知見が得られることもあるようです。


〇正しい、に対するイメージ
私にとって、「正しい」という言葉は「そのようにしなければならない」という意味を多分に含んでおり、やや強制的で、自由を奪われるイメージがあります。同時に、自分の存在・価値を肯定するための拠り所になっている部分もあり、なにかあったときに「自分は正しいだろうか?」と考えることも多いです。


しかし、実際に「自分は正しいだろうか?」と、問いかけた時にその「正しさ」が自分に安心を与えてくれることは稀です。これは、私が持っている(あるいは仕様している)「正しさ」というのが、バランスを欠いているためだと思われます。


〇正しい、とは何か
私の認識では「正しさ」というのは「基準」であり、「定義」です。『正義は人の数だけある』などという言葉もよく聞きますが、「正しさ」も人によって微妙に違っていますし、時代・文化圏が変わると全く違うものになっていたりします。(400年か時代を戻せば、殺人は必ずしも悪ではありませんでしたね)


「正しさ」は親による影響を基本として、周囲の社会を観察することによって、自分の中に作り上げられていくのだと思います。この際、どれだけ周囲に合わせようとするかや、逆に周囲と違うことをしようとするかなど、個人差が成長の中で出てくるわけですね。


〇正しい、のつくる葛藤
自身の思考・行動の基準たる「正しい」ですが、時に自分の「好き」と対立することがあります。ここで言う「好き」というのは自分の感性や、時に条件付けからつくられる好みで、ほぼ無意識の領域ですね。


「好きなことが正しいことだ」という考え方であれば、この対立は(少なくとも自分の中では)起こりませんが、周囲に合わせることを優先しやすい性格の場合には、周囲から吸収した「正しい」と自分の「好き」が対立して、深刻な葛藤が発生するパターンがあります。私はこれですね。


また、「正しい」は所詮定義であるので、複数の対立する「正しい」を取り込んでしまった場合にも、同じようなことが起こります。小さいこどもが両親の板挟みになって苦しむのも、これに近いかもしれません。


〇本来持っている方に合わせると良さげ
1年と少し前に、ある人に「正しい、間違いではなく、好き、嫌いをベースにしてみるといいですよ」とアドバイスしてもらったことがありまして。当時はどういうことか分からなかったのですが、ようやっと意味が分かってきたような気がします。


自分自身の生まれつきの気質からくる好みが、色々な理由で身に着けた「正しさ」に隠されていると、無意識に気力が低下したり、方向性を見失ったりする、ということなのかなと。そらやりたくもないことをやっていたら、やる気もでないですわな。


ここまでお読み頂き、ありがとうございました。


追記:
自分の正しさと、他者の正しさの間に起こる摩擦はまた別の話なので、曲解なきようお願いしますね


自分用まとめ:
・「正しさ」は定義。書き換えもできる
・「正しさ」はある意味で道具のようなもの
・道具は使うものであって、使われるものではない

 

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