小学5年男子の悲劇
こんばんは。たんぽぽです
今日は良い天気!
近所の桜も8分咲から満開に近くなってきました。
そういえば、宮城には大河原の「一目千本桜」という桜の名所があるんですよね。今年は満開になってから気がついたので行きそびれましたが、来年は計画を立てて行ってみようと思います。
〇逃避の対象を探る
さて、昨日はブログに書いた記事の影響もあって、自分が「逃避」を続けているという認識が強まり、この逃避を誘発してる思考や感情を探っていきました。
従来の自覚としては、単純に自分が仕事を始めることから逃げている。という認識を持っていまして。その認識をもって「ずっと嫌なことから逃げている、怠惰で臆病な自分。ダメなやつ」という自分いじめを続けていたのですが。(自己評価が下がるだけで負のループに嵌っていくやつですね)
より深く、受容と感謝と共に感情を探っていくと、逃避の対象は「行動」ではなく、「不安感」であることが見えてきました。
〇テーマ1:はやくしなくちゃ
不安、というのは基本、過去に経験した痛みを再び味わうのではないか、という怖れからつくられます。昨日見つけて限りではこの不安感は二つの怖れから構成されていまして。
一つ目は、「はやくやらなくては」という焦り。現代はとかく「はやい」ことがもてはやされます。とにかく、はやく。スピーディに。遅れることに価値はない。といった具合に
私の場合には、小さいころからじっくり何かをやるタイプであったのですが、そこに対して「早くしなさい、間に合わないよ!」とせっつかれたことが感情の核となって、「あわわ早くやらなくちゃ、すぐやらなくちゃ。でもそんなすぐに仕事を立ち上げるなんで無理だよウワアア」
的な感じで無意識下でパニックになり。このパニック感を避けるために作業をそのものから逃避していたようです。
〇テーマ2:恥をかきたくない
これと一緒に出てきたのが、とある記憶。思い出して書くのにも苦痛を感じるのですが(笑)
確か小学校5年生の時。家庭科の授業で裁縫がありまして、その際に裁縫箱を選んでひとりひとつ買うことになりました。当時の私は水色と紺の無地のものがいいかな、と思ったのですが、確か母の「地味じゃない?こっちのほうがかわいいよ」という言葉に従って、水色とピンクの三丁目のタマの裁縫箱を買ってしまいました。マジで母親に逆らえない子供だったんだなー、と思います。
これです。画像はグーグル検索からお借りしてきました
かわいいですね。今だったら普通に使うとこです。しかし水色とピンクです。女の子用です。現物を見た時の私(小学校男子)の微妙な心境たるや・・・。同級生の男子に馬鹿にされるだろうなーと思いながら学校に行きました。しかし現実はもっと酷かった。
近くの席に自分の好きな女の子がいたのですよ。確か。で、その女の子も同じ裁縫箱だったんですよね。内面の葛藤を振り払うためもあり、誰かにその裁縫箱を肯定してほしかったのかもしれません。あるいは単純にお話の口実をつくりたかったのもあると思いますが。
私はその子に確か「一緒のだね!」と話しかけました。帰ってきたの微妙な沈黙でした。チーン
当時の私にその語彙はありませんでしたが、漫画風に言うなら「終わった・・・」といったところでしょう。嫌なことをしまい込むのが得意な私はこの体験をおそらく封じ込めたのですが、記憶の奥底には痛みとして残っていて「恥をかきたくない」という強烈な潜在意識が形成されたものと思われます。
ちなみに、家に帰ってから「変な目でみられた」と言うと、新しいのを買ってもらえました。男子に馬鹿にされた記憶はあまりないです。
〇今日
そんな感じで、いろいろブレーキをかけているものを見ていったところ、なんだか前に進める感じになってきて、今日は久しぶりにちょっと頑張れて気分爽快です。
引き続き一歩一歩頑張っていきたいですねぇ
ここまでお読み頂きありがとうございました。
自分用まとめ:
・できないのにはできないなりの理由がある
・小学男子はプライドが高く、繊細である
人生を変える方法はあるのか
こんばんは。たんぽぽです
今日は曇り時々晴れ、時々雨。全部の天気を楽しめてお得!なのか・・・?
ようやく満開になってきた桜
〇読書の日々と欲求
連日、『スライト・エッジ』を読んでいます。結構リアルというか、ある意味辛辣なことも書いてあって面白いです。この手の本の中ではかなり当たりというか、人にお勧めできる本だな、と思うところ。一方で、先に述べたように突っ込みどころも多いのですが、それはまた別の機会に。
私はこの手の本を読む時、いつも思うのは「誰にでもできる、人生を変える方法。改善する方法というのはないものか」ということ。100%といわずとも、せめて80%の人が使える方法はないのものか。と
〇継続こそが変化をもたらす
自慢ではありませし、自慢にもなりませんが、私は自己啓発本やノウハウ本を何冊も読んでいます。そしてほとんどの場合、その内容を実行すらせずに、「この本で人生を変えることができました」という”読者の感想”を空々しいと感じてきました。
多分。私みたいな人は多くて。優れた考えを学んでも。いや、学んでも、という言い方は正確ではないですね。本であれば、「目にして、知識として軽く頭に入れる」だけで、身について、人生を変える「習慣化」にまでもっていくことをしないのでしょう。
なので、ちょっとでいいから、簡単なことでいいから続けよう。というのが『スライト・エッジ』のおおまかな主題のようです。
〇失敗する自信がある!
そんでもって。どうすれば、その「続ける」ができるのか。についても色々と書いてあるようで。目次だけ見ても、ほほう。と思う部分があるのですが。はっきり言って自分はこの本を読み終わっても自分を変える自信はありません。失敗の経験を積み上げましたし、自分が如何に現状に執着するのかを知っています。
このまま『スライト・エッジ』を読むとして、本を読んでいる間は刺激を受けて、自分の生活に「ちょっとした変化」を起こすことができるでしょう。しかし、読み終わった後は、この本の2回目を読むことはしないでしょう。”同じ本を読み続けて変化を起こす作戦”は『スタンフォードの自分を変える教室』で試したときに挫折しています。
〇問い続ける?
では、どうすれば良いのか。どうすれば私は自分の人生を納得のいく形にもっていくことができるのか。どうすれば今の自分を継続的に良い方向へ変化させていくことができるのか。
4/4の記事にも通じるところがあるのですが、今の自分の状況・環境・スキル。気質。それに合わせて、自分オリジナルの方法を考える必要がある気がします。もちろん、実行し続けることができる方法です。
多分、ビジネスっぽく言えばPDCAを早めに回す、というやつだと思いますが、この手の言い回しは嫌いなので、この「嫌いな感覚」を見ていくところから始めてもいいかもしれません。
結論がはっきりでない日記ぽい記事で申し訳ありませんが、答えが見えない問題は挑む、という感覚は初めてで、ちょっと面白く感じます。冒険っぽいというかなんというか。借り物でない、自分の人生を生きる、というのはこういうことなのかしら、と思ったりします。
自己啓発本の読み方も変わりそうですね。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
自分用まとめ:
・人生デザインには鉛筆を使う?筆を使う?ノミを使う?
・既存の方法じゃなきゃいけないということはないのではないか?
〇インスピレーション
ここまで書いて、自分の『人生を変える方法はあるのか?』という自分の問いが、実は『人生を変える方法は誰が教えてくれるのか?』という、他者依存ぽい何かがあったことに気づきました。
実際、ありとあらゆることが、人生を変える方法を示してくれますが、『人生を変える方法を実行する方法』は、自分しか決められないのですね。
つらさを味わう幸せ
こんばんは。たんぽぽです
今日も曇り。風が冷たい。しかし、気温も上がっているので植物は元気ですね
たぶんノゲシ。まだ小さいですね
〇早寝できず
寝不足寝不足と言いながら夜更かしを止められない今日この頃ですが、習慣化してしまった感情の解放ワークは欠かさず続けています。
正直なところを言うと、色々と葛藤が残っていて、実生活で満足のいく変化が起こせていない(と感じている)こともあり、「こんなん意味ないじゃないか」という気持ちがあるのか、「やりたくねぇー」と思うことが頻繁にあります。飽きもあるかも。
『スライト・エッジ』を読んで、継続にこそ意味があるという考え方が強化されていなければ、一週間前あたりにやめていたかもしれません。
やっていても、集中できず、みじめな気分になったり、焦ったり。ブログを書いて冷静になっている時に振り返れば、集中できないのは明らかに寝不足による疲労のせいなので(大体家人が寝た23時くらいに開始するので、もう体が疲れている)、肉体疲労が如何に負のループをつくるかが分かりますねー
〇辛さを認める
そんな感じで、昨日はひとつのテーマに集中できず、あっちに飛んだり、こっちに飛んだりしながら感情の解放ワーク。というより内観をしていたのですが。
社会的にあやふなや、今の自分を情けない、みじめと思い気持ち。孤独、寂しい。といった普段は比較的無視したり、隠したり、押し込めたりしている気持ちが出てきまして。そこでその『辛い気持ちを隠していたことに気がつきました』
言葉で表現すると難しいのですが、自分がつらい気持ちから目を背けて、向き合うことから逃げていたことを認めて、その逃げていたこと、逃げたいと思った気持ちを含めて許す感じでしょうか。
〇逃避癖を認める
そこで気がついたのは、私は一定の「辛い」感情からは逃避する(目を逸らす、隠す。行動としては”先送り”が多い)無意識のパターンがある、ということ。誤解を恐れず言えば逃避癖のようなものです。心理的な機能としては自分の心を守るためのもので、程度の差はありますが、多くの人が持っているものだと思います。私はそれが強めなのかもしれません。
あえて言葉にすると、「辛い、痛みを感じる ということが とても恐ろしいことに感じて 瞬間的にブロックする」 といった感覚ですね。
いっぺんに多くの情報や感情を処理しきれないと、頭がパンクしてしまうので、機能としては自然なものなのだと思いますが、度が過ぎると未処理の感情と思考が貯まりすぎて、無意識の葛藤が肥大化し、身動きが取れなくなってしまう場合があります(私です)
〇辛い感情を味わう幸せ
このことに気づいて、認めた時、初めて辛い感情に対して感謝の気持ちが沸いてきました。肉体的にも、精神的にも負荷がかかったりしたときに、正常な反応として辛い気持ちが出てくるわけです。それはごく自然なことです。
一方で、その負荷に耐えられないときに、一時的にそれを隠そうとするのも自然なこと。理不尽なように見えますが、それを隠すことによって葛藤が生じるのも自然なことなのです。
辛い感情の痛みに耐える心の強さ。~私の場合にはマインドフルネスの訓練と、感情に向き合うという意図によってそこに向かうことができましたが~ その強さにたどり着いたとき、喜怒哀楽の「喜」と「楽」だけでなく、「怒」と「哀」のすべてを味わい、本当の意味でバランスの取れた人生を生きることができるのかもしれぬ。と感じました。
今のところ、意図して集中しないとこのモードには入りませんが、この心の姿勢を普段のものとすれば、人生楽しそうだし、肩の力を抜いて生きられそうだなーと思います。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
自分用まとめ:
・ポジティブな感情とネガティブな感情は等質っぽい
”正しさ”についてあれこれ考察する
こんばんは。たんぽぽです
今日は曇りでしたが、そんなに寒くなくて助かりました
イヌナズナ
〇正しい、という言葉
感情の解放ワークをしていると、しばしば「悪い」とか「正しくない」という言葉が自分の中からよく出てきまして。自分は善悪とか、正しい・正しくないという考え方に随分囚われているなあ、と感じます。
なので、昨日はワークを中断して、少しそのあたりについて考察してみました。悩んでいるときにこういうことをしても大体うまくいかないのですが、好奇心から初めて、マインドフルネスを高めた状態であれば、意外な知見が得られることもあるようです。
〇正しい、に対するイメージ
私にとって、「正しい」という言葉は「そのようにしなければならない」という意味を多分に含んでおり、やや強制的で、自由を奪われるイメージがあります。同時に、自分の存在・価値を肯定するための拠り所になっている部分もあり、なにかあったときに「自分は正しいだろうか?」と考えることも多いです。
しかし、実際に「自分は正しいだろうか?」と、問いかけた時にその「正しさ」が自分に安心を与えてくれることは稀です。これは、私が持っている(あるいは仕様している)「正しさ」というのが、バランスを欠いているためだと思われます。
〇正しい、とは何か
私の認識では「正しさ」というのは「基準」であり、「定義」です。『正義は人の数だけある』などという言葉もよく聞きますが、「正しさ」も人によって微妙に違っていますし、時代・文化圏が変わると全く違うものになっていたりします。(400年か時代を戻せば、殺人は必ずしも悪ではありませんでしたね)
「正しさ」は親による影響を基本として、周囲の社会を観察することによって、自分の中に作り上げられていくのだと思います。この際、どれだけ周囲に合わせようとするかや、逆に周囲と違うことをしようとするかなど、個人差が成長の中で出てくるわけですね。
〇正しい、のつくる葛藤
自身の思考・行動の基準たる「正しい」ですが、時に自分の「好き」と対立することがあります。ここで言う「好き」というのは自分の感性や、時に条件付けからつくられる好みで、ほぼ無意識の領域ですね。
「好きなことが正しいことだ」という考え方であれば、この対立は(少なくとも自分の中では)起こりませんが、周囲に合わせることを優先しやすい性格の場合には、周囲から吸収した「正しい」と自分の「好き」が対立して、深刻な葛藤が発生するパターンがあります。私はこれですね。
また、「正しい」は所詮定義であるので、複数の対立する「正しい」を取り込んでしまった場合にも、同じようなことが起こります。小さいこどもが両親の板挟みになって苦しむのも、これに近いかもしれません。
〇本来持っている方に合わせると良さげ
1年と少し前に、ある人に「正しい、間違いではなく、好き、嫌いをベースにしてみるといいですよ」とアドバイスしてもらったことがありまして。当時はどういうことか分からなかったのですが、ようやっと意味が分かってきたような気がします。
自分自身の生まれつきの気質からくる好みが、色々な理由で身に着けた「正しさ」に隠されていると、無意識に気力が低下したり、方向性を見失ったりする、ということなのかなと。そらやりたくもないことをやっていたら、やる気もでないですわな。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
追記:
自分の正しさと、他者の正しさの間に起こる摩擦はまた別の話なので、曲解なきようお願いしますね
自分用まとめ:
・「正しさ」は定義。書き換えもできる
・「正しさ」はある意味で道具のようなもの
・道具は使うものであって、使われるものではない
ねむいとやるきでない
こんばんは。たんぽぽです
〇やる気のでない日
今日は結構な時間を無為に過ごしてしまいました。Youtubeをぼーっと眺めたりとかですね。満足感もないので刹那的な快楽もなしという、一番生産性のないパターン。ま、生産性のないことに気づきやすい、という意味では良いかもしれない
やー、導入から景気が悪い話ですみませんね。今朝は寝起きからずっごい眠かったので、多分寝不足が効いてるんだろうなあ。あとは雨で暗いからか
昨日は結構調子が良くて、明日はこれをしようあれをしようと考えていたのですが、今日になってみると全然やる気がでない。『スライト・エッジ』も読む気にならず。これが今の私の意志力の限界かもしれぬ。
〇自己嫌悪には陥らず
こういうパターンだと、基本、自己嫌悪 →苦痛からの逃避(ネット・ゲーム・ポルノ) →自己嫌悪のパターンに入っていたのですが、そこに気づけて立て直すことができている感もあり、トレーニングの成果が多少は出ているな。とも思うところ。
3月半ばからこの状態が続いている感じですが、今はあまり調子がでないパターンに入ってるようです。努力の成果があまり目に見えない状態ですが、ここで自棄にならずに淡々と行動をしていくと、そのうち飛躍を感じられるパターンに入っていくと思うのでふんばりどころかもしれません。
ちなみに、この知見は『スライト・エッジ』を読んで得たものです。一部、んん?と思う部分もありますが、役に立つ本です。
あんまりまとまってませんが、また眠くなってきたのでこのへんで。やはり寝不足が原因か・・・(Zzz
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
自分用まとめ:
・成果がでない時にこそ、継続を続けることが大事
・眠いとやる気がでないZzz
自己啓発本を読む際に
こんばんは。たんぽぽです
※一時感情的な表現があります
〇寝かせておいた本を読む
先日から、久方ぶりに自己啓発本を読み始めました。
これです
確かストイックマンさんのブログで紹介されていて気になったので購入した記憶があります。Amazonで買ったので履歴を見てみると2016年の11月でした。去年ですらなかった!ちなみに、最長だと4,5年置きっぱなしにしてたこともありますね。(読まないで中古に売ったこともありますが)
多分、この記事
「自己啓発本を読んでも、なぜ変われないのか」的な切り口から話が進められていて、なかなか面白そうな内容です。結構耳に痛い内容が書いてあって、まだ読み始めたばかりですが、影響を受けるのを感じます。
〇批判的思考
さて、私にはひねくれた部分と言いますか、警戒的な部分がありまして。こういう本を読むと、まず最初に「著者は当然できるようなことを書いているが、それは著者だからできるんだ」と、反感を覚えることがしばしばあります。
以前は、こういう気持ちはたんなるひがみであり、エゴの為せる業で意味がない、と自己批判の種になっていたのですが、昨日、必ずしも悪いものではなく、それも使いようなのではないか、と思い至りました。
例えば、この本の作者さんは自分のことを「ごく普通の平均的なこどもだった(P17)」と振り返っています。嘘をついているつもりはないのでしょうが、この言葉を素直に。より、客観的にいうと、自分の解釈で「ごく平均的な普通の人だったんだー」と考えると、ズレが生じると思うのです。
まだ本を全部読まないうちにこういう記事を書くのもなんなのですが
この作者さんは、冒頭に「ごく普通の平均的なこどもだった」と言っておきながら、「どんなに不利な立場に立たされようと、それを跳ね返すに余りある気力と野心があった(P14)」とも書いています。私のように内向的で行動力に悩む人間から見ると「お前は一体何を言っているんだ」という感じですね。アメリカ人と日本人の違いもあると思いますが。
〇批判と分析を”活用”する
上記のような批判的思考から「この作者には野心があったからできたんだ」「自分には野心がないからだめだ」とつなげてしまえば、それで話は終わってしまうのですが、役に立つ方向につなげることもできるんですよね。
つまり、「この作者さんは自分よりも野心や気力があるようだ」「その分を差し引いて考えてた場合、この作者さんの言いたいことは納得ができるだろうか」「この作者さんの教えてくれることは、自分の役に立つだろうか?」といった塩梅です。
あまりないことかもしれませんが、本の内容と自分の気質が離れすぎていると感じるのであれば、時には「合わない」と判断して捨ててしまうのも手かもしれません。簡単に諦めるのは悪癖となり得ますが、無理に頑張るのも気力体力の無駄です。
言い換えれば、『方法・方法論を礼賛、妄信せずに、一歩引いて読むくらいがちょうど良い』ということですかね。
あと、話の流れ上、やり玉に挙げてしまいましたが、この本自体はとても優れた着眼点を持っていてお勧めですよ。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
自分用まとめ:
・本は冷静に読む(自省)
・本に読むことと、内容を『理解』することには大きな差がある
個性
こんばんは。たんぽぽです
今日は曇りですが、そこそこ暖かい。関東以西は晴れていたみたいですね
ようやっとタンポポも咲き始めました(撮影は3日前くらい
〇新生児の写真
先日、母がアルバムの整理をしていたところ、私と弟の生まれた時の写真がでてきました。(写真は流石に載せませんが)。両方とも生まれたその日に撮ったものだったですが、驚くくらい様子が違うのですね。
弟がビエーッという感じで横を向いてしかめ面しているのに対して、私は正面を向いて薄く笑っていました。ここまで違うものか・・・!?と衝撃を受けて、ちょっと調べてみたりしたのですが
こんな記事があったり。
〇気質の存在と、その扱い
生まれたときから気質と言うのは結構差があるようです。弟は明らかに「がんばりや」タイプ。私はたぶん、「おりこう」タイプが近いでしょうね。私が自分のコンプレックスとして抱え込んでいる特徴が全部書いてあって笑えてきます。
これを眺めていて気付いたのは、自分は自分の得性を「価値がない」「意味がない」「だからなんだっていうんだ」、という感じに無価値に考える癖があることと、他のタイプがうらやましい、という思考の存在でした。
思ったよりも、自分の個性に対して劣等感を感じていたようです。客観的にみて、個性というのは長所と短所の両方がある、いわばコインのようなものなのですが、自分はその裏面ばかりを見る癖があるようですね。
これでは色々うまくいかないのも当たり前かもしれません。
せっかく「個性」ということに、焦点があたったので、これからはこの方面からも内面探求をしてみたいなあ、と思っています。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
自分用まとめ:
・生まれ持った個性というやつは確かにあるらしい